「ごめん、ちょっといい?」
絵里子は自らハンドルを握っていたBMWをカードレールの切れた松林に寄せると、ハザードランプをつけた。
えっ? 助手席にいた剛は状況がわからぬまま、六つ年上の絵里子を振り返る。
「バカね、女の子がちょっとって言ったらわかるでしょ」
そう言って彼女はドアのロックを外すと、ウインクして左ハンドルのシートから外に出た。そして、そのまま辺りをうかがうようにして、自然林の間を奥に入っていく。
なんだトイレか…、剛は自分の愚かさを責めながら、霧の中に吸い込まれていく長身の絵里子を見送る。
(でも絵里子さんがトイレに行くなんて信じられないもんな)
剛は室内に残った大人っぽい絵里子の残り香を思いっきり吸い込む。
女性ながら会社の第一線の営業部・課長の絵里子は新人社員の剛には遠い憧れの存在だった。彼女と対照的に剛は営業成績もいつも最下位を争っているダメ人間で、女子社員からもいつも白い目で見られている。
そんな剛が突然ドライブに誘われて、動揺するのはしかたがないことだろう。
「まさか本気でボクの事想ってくれてるわけじゃないよな」
そう独り言をいいながらも、内心では期待することがないわけではない。会社の誰からもバカにされている剛だが、絵里子だけはそっと失敗をフォローしてくれたり、絶対確実な得意先をこっそり耳打ちしてくれたこともある。
最初は単に上司としてなのかと思ったが、季節はずれの軽井沢にわざわざドライブに誘ったところを見ると、案外見込みアリなのかもしれない。
(でも、やっぱり遊びなのかな?)
剛は答えの出ない自問をくり返しながら、絵里子の消えていった林を眺める。
いつの間にか濃くなった霧はすぐそばの木の幹までをぼんやりと見せている。
もしかして、迷ったのかもしれない…、剛はすでに5分以上過ぎていることを時計で確かめて車の外に出た。
しかし、霧のせいで絵里子がどちらの方に進んだのかもまったく見当がつかない。
(困ったな。助けを呼ぶにも辺りに誰もいないし…)
車の運転ができない剛は、置き去りにされた子供のように不安げに辺りを見回すことしかできない。本来なら探しに行けばいいのだが、視界の聞かない松林に踏み込む勇気が剛には持てなかった。
その間にも時間は刻々と過ぎていく。
「絵里子さ〜ん」
剛はついに不安に耐え切れなくなって大声でその名前を呼ぶ。
耳を澄ませて、もう一度─今度返事がなかったら、探しに行こう、と自分に言い聞かせながら、剛はくり返し叫んだ。
もう何度呼びかけたか、自分でもわからなくなったその時である。
松林のずっと奥の方で、小さな悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
つーんと耳鳴りのような静寂の合間に、今度ははっきりと絵里子の声が聞き取れる。
「助けてーっ!」
かん高いその声に、剛は思わず逃げ出したくなる気持ちを押さえて霧の林に入っていく。
あの冷静な絵里子があんな切羽詰まった悲鳴をあげたのだ。ただ事でない事件が待ち受けているのは確実だった。
それでも、次第にもつれる足が早くなっていくのは愛情の証であると、生まれて初めて見せた勇気に後押しされて駆け出していく。
しかし、その想いも待ち受けていた衝撃的な光景に脆くも砕け散っていく。
「絵里子さん!」
霧の向こうに見えてきたのは、戦争映画に出てくるような迷彩服の男が、絵里子を羽交い締めにして巨大なサバイバルナイフを突き付けている場面であった。
(一体どうして?)
目にした光景にあっけにとられて、剛はその場に立ち尽くす。
しかし、彼を待っていたのはもっと信じられないような運命だった。
カチリ、と背後で音がしたかと思うと、振り返る途中で機関銃の銃身が頭に突き付けられた。
「動くと死ぬぞ」
押し殺すような声に、剛は全身の筋肉を凍り付かせる。
機関銃の男は後ろから腕を取ると、膝を蹴り飛ばすようにして剛を地面に押し倒す。
左右の腕を捩り上げられて手首の自由を奪われる間も、剛はガチガチを歯を鳴らせて震えることしかできない。
「よし、ゆっくり立ち上がれ」
転がされた脇腹を軽く編み上げブーツの先で蹴られた瞬間、剛の緊張の糸はぷっつりと切れた。
「うっ、こいつチビりやがった」
そう言われてはじめて、剛は自分が失禁していたことを知る。
しかし、枯れ草を持ち上げるように圧倒的な腕力で立たされた剛に、それを恥じている余裕はなかった。